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(2008/10/22)

LAC2008運営側の承諾をいただき、同講演のビデオを掲載しました。

lac2008_miller_keynote.ogv (約188MB)

ogvファイルの再生には、各種OS対応のVLC media playerが使用できます。

以下、LAC 2008(ドイツ・ケルン)で行われた講演のビデオを見ながら、私が興味深いと感じたポイントを書き殴ったものです。 講演内容の一字一句を起こすことを目的としておらず、正当性は保証致しかねます。

Linux Audio Conference 2008におけるMiller氏による基調講演・概要

まず、プレゼンテーションにコンピュータを用いないことを詫びたいような、詫びる気もないような… (Apologize or not aplogize for not using a comuter. They impede communication.)

プログラミング、その他諸々、コンピュータを使用していると何かと他のものに注意が移行し、当初の目的と異なる作業に陥りがち

作曲家であれ演奏者であれ、コンピュータが介すると、作業の性質が「事務」になってしまう。 伝統的に「パフォーマンス」の定義するところでは、パフォーマーは聴衆の前で何かしらの動作を起こすことを求められている。
例えばバイオリンを演奏することと、ノートPCに向かって黙々とタイピングを行う演奏が、同じパフォーマンスとして扱われている。
(これも大半の場合、聴衆はPCの画面を見ることができないし、あるいはプロジェクターなどで投影しても大抵は何が起こっているのか理解できない)
このように「コンピュータを使用したアート」の多くが、アーティストの意図に反して「コンピュータがテーマのアート」に陥っている。

ステンドグラスの例え。
ステンドグラスにおいて、日光は補助的な要素でしかない。しかし同時に、日光が指すという前提で設計される上での、不可欠な要素でもある。
ステンドグラスにとっての日光は、捉えようによってはその表現形態の枠組みを決定する制約とも成り得るし、あるいはその作品にFreedomと拡張性を与える要素にも成り得る。

「芸術」と聞いて、まず始めに音楽を想像する人はおそらく少数。なぜなら、描いた翌日にまた自ら確認できる絵画などとは異なり、音楽は演奏されたその瞬間にしか存在しない芸術。録音技術の発展により演奏を記録・流布することは可能となったものの、それもある瞬間に存在した芸術の記録でしかなく、芸術の本質は失われている。
この限りではないコンクレット音楽も後年誕生するが、それはまた別の話。

この数十年の間に、音楽製作はファイルを作成することを指すように転じた。
録音技術の発展により、ひょっとすると音楽は百年ほど前では当たり前のことだった大切な何かを、恒久的に失ってしまったかも知れない。それは、元来音楽を楽しむためには、どこかしらから奏者を引っ張ってくるか、あるいはそれが不可能であれば自分で演奏するしか方法はなく、また多くの家庭になにかしら演奏のできる楽器が置かれていたことに象徴されるもの。

音楽を楽しむのは本来民衆が自ら行うものであり、自室で楽しみつつ、地球の裏側に住むWiredoの懐を潤す行為ではなかった。

積極的に音楽を作ることに加担する行為が大切と考える。音楽を作る体験は、音楽を聴くに留まるよりも人間を豊かにする。なにしろ作曲は確実に何かを与えるから…それが何かは解らないが自室に篭ってAmerica's Armyをプレイしているよりは充足感を与える。
もしこの作曲という行為を専門家だけでなくスキルの満たない人間にも可能にするとすれば、何が必要になるだろうか?

ミュージシャンのためのソフト開発をする人はなぜか、ミュージシャンがいかにコンピュータで作曲をしたがっているか、あるいはいかに作曲するべきかについて先入観を抱いている。したがって、流布しているソフトウェアのほとんどが、なにかしら構造(structure)を持っているか、あるいはそれにより作成できる音楽に構造を規定する。

余談だが、私はずっとこの流れへの抵抗を試みており、なるべく作曲家中心ではなく演奏家中心となるソフトウェアの開発を目指している。

#IRCAMで開発されたツール「フォン(?)」の例。lispベースの作曲用プログラミング環境自体がツリー構造を持っているため、創造される作品も自ずとツリー構造を持つ。
作品がソフトウェアに規定される一例。同様に昨今のDSPコンファレンスに行くと、Maxを使用した作品は、Maxに囚われていると思わせる作品に出くわすことが多い現状を憂いている。

この場を借りて一つ提案したいのは、音楽用のソフトウェアを創造する際に、これまで述べたように作品の構造に制限を強いるような造りにはしないように心がけること。
Max/Pdをご覧になればわかるように、私が理想としているのは、(完全にないとは言えないまでも)なるべく制限を排除した環境。
MLなどでよくデータ構造に弱いとか、プログラミング環境としては不完全、浅いだのとよく叱咤される。洗練されたプログラミング環境は、むしろユーザが秩序だったコードを書けるよう、を自然に導くものでなければならない、と。

Max/Pd (Pdにおいてはなおのこと)このような概念を欠いている。ソフトウェアは作曲家を特定の手法に導くものであってはならないと考える。歳とともにこの考えがラディカルになりつつあることを自覚してはいるが、設計当初はここまで深い思慮について開発したわけではなかった。そもそもMaxパラダイムの設計時に目指していたのは、誰もが「楽器」をデザインできる環境。
例えばピアノには、91鍵という規定はあるが、鍵盤を押した途端にエラーメッセージが飛び出したりとかいった制約はない。あとは好きな鍵盤を弾いて、好きに演奏すればよい。Pdの目指すところはこれに近い。基本的には何かしらの入力に対して、何かしらを出力する環境。それまでは何かが起こるのを待っている。さらに極論だが、Pdに制約が多すぎるというのならば、伝統的な楽器が規定する制約が、いかに狂気的なまでに多いか考えてみればいい。
ここで理想とする環境を作るのに成功したという自負はあるが、残念なことにん「入力に対して出力が生じる」という一点がユーザのほとんどを魅了する点となってしまい、入力に対する出力が過剰な作品ばかりを生んでしまった。これは私がこれまで説明したような、当初Pdに求めていたコンセプトと相反する。

また、前述のように奏者がラップトップの前で座っているだけのパフォーマンス文化を生んだ、一端を担うことをここで詫びておく。
なるべく、入力に応じただけの出力が生じるような設計を心がけて欲しい。そうすれば音楽を継続させるために奏者はアクションを起こすことになるし、何が起こっているか聴衆が視覚を通してよりよく理解できることにも繋がる。

Music and publishing
先の話にも重なるが、いつしか音楽は代金を支払って楽しむものになってしまった。 コンピュータソフトは、音楽を作るためだけのものではない。コンピュータで音楽を作る行為は、ときに音楽を出版する行為と等しくなる。

例えばMax/Pdでパッチを作成し、それを広く入手可能にしたとする。 すると作曲に使用したパッチがそのままドキュメントでもあり、使用者は演奏を再現することが可能となる。
その点においてCsoundなどはこれを究極なまでに推し進めたもの。サンプルに付属するファイルはおよそ30年前のもので、ブーランジェが1978年にVT52ターミナルで作曲した作品が、いまだにあらゆる環境でドキュメントとともに再現可能なのは奇跡に思える。
70年代のコンピュータ音楽の小品を作曲・出版する環境としてCsoundは非常に成功したと言える。

願わくば、Pdにも同様に永く使用されて欲しいと考えている。実はこれが、私がパッチをあまり積極的に取り入れない理由の一つでもある。
ソフトウェアの寿命を見ると、大抵は急に成長して消滅するか、細長く生きる。現実に、ソフトウェアにはそれ自体が含有できる複雑さに各々限界がある。よって、ソフトウェアにコードを追加する際には、事前に深く考慮すべき。なぜなら、その一行(あるいは一機能)が追加されることにより、ソフトウェアを確実に死に近づけることになる。コードの一行一行が、ワラ人形の釘の一本一本。
私自身はLinux自体が、今日明日のことではないにしても近々複雑さが手に負えなくなり、かつての魅力を失うのではないかと漠然と思うことがある。その後を担うのはMSでないことだけは確か。制御不可能なまでに複雑さを増したという観点においてはLinuxよりもずっとひどい状況にあるので。どちらかというと、広く使用されているOSの中ではLinuxはまだ割合とましな方。広く使用されて「いない」OSの中では個人的にPlan9に興味があるのだが、こちらはオーディオサポートが弱いので…最近はもっぱらLinux。使用する分に特に不満はない。

不満どころか、今はコンピュータ音楽を享受するのにこれまでにないほど良い時代。
$500程度でPCを購入してきて、簡単に数ミリ秒のレイテンシしかない環境を構築できる。

しかしなぜ、Linux audioを取り巻く環境はかくも混沌としているのか。
たくさんのコンセプトがあまりに急速に発達しているため、残念ながらすべてを協調させる一貫した仕様が存在しない。Jack, LADSPA, etc.. 近々私も一つ提案するつもりだが、ここではしない。

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さて、ソフトウェアとアートについてはこのぐらいにしておいて…
アートと様式は、また異なる話で… ところで、もう11時43分?

(進行係から一声)

はい、では質問は?

以下質疑応答

Q1
古典音楽の世界では、作曲家と作品について長く研究がされてきました。
時に真っ白なキャンパスではなく、ある程度の様式、制限が作曲家を解き放ち、創作する原動力ともなってきていました。この点については何か考えがおありですか?


それには100%同意します。
この世界には、私には矛盾とも思える二つの事象が同時に存在することに成功している。
一つは、非常によい弦楽四重奏を聴くと、わずか16本の弦という制限にもかかわらず、かくも偉大な芸術作品を生んでいるということ。これに見られるように、時に制約が作曲家を挑戦に向かわせる。

二つめは、それにも関わらず、偉大な作品を聞く分には、作曲家が制約と戦いながら書いたような印象をまったく受けないこと。

質問の意図は十二分によくわかる。
これこそ自己矛盾かも。
その辺りは理論的に説明するのが難しい。
そもそも芸術に理論があるのかわらない。

Q2
(質問意図よくわからず)


(しばらく思慮したのち)
おそらくこういうことをお尋ねだと思うですが…
例えば作曲家がすでになにかしら様式を思い描いていて、その様式を形にする上でコンピュータを使用したとします…私たちはそれをComputer aided compositionと呼びますが。同時に作曲の要素には様式化されていないことが多く、それらを一段と高みに推し進める行為において、様式化について考えるのは誤っていると思います。個人的には極端に様式化された音楽は退屈に思います。
ただ、あなたが提案したクセナキスに限っていえば、この説明に当てはまりません。彼は様々な様式に基づいておきながら、その範疇に収まらない作品を沢山残しました。クセナキス以外にそのような作曲ができた人を知りませんし、なぜそれが可能だったのか未だにわかりません。
質問の答えになりましたでしょうか?

Q3 (Paul Davis, Ardour)
先ほどの講演で、作曲者と奏者がコンピュータといかに対峙するかについて話しがありました。
伝統的な音楽にはもう一つの要素として、さらに指揮者の存在が等しく論じられます。
コンピュータ音楽奏者は、演奏をしようとしているのではなく指揮者に徹しようとしているという考え方はできませんか?

また、ソフトウェア間の接続に関する互換性について。
一つの機能を実現するのに、どの階層でそれを実装すべきか(ホストアプリとしてか、あるいはプラグインとしてか)について、照準が定めるのが難しいのだと私は考えます。


まず指揮者について。
おそらく私が知っているコンピュータ音楽関係者で、最初に指揮者の存在について論じたのはMax Mathewsだったように思います。彼は、作曲家が音楽を提供して、リスナーが自分で聞きながら指揮をできる音楽について熱心に論じていました。
しかし、それを指揮者と呼ぶのはどうかと思います。私の知っている指揮者というポジションは、どんな楽器奏者よりも音楽への深い理解と造詣を求められます。
能動的視聴の考えは否定しませんが、コンセプトの具現化に成功している例は少ないように思います。

二つ目の問いについて、
確かに私は極端に話を簡素化して、そして自ら矛盾に突き当たるということがよくあります。で、結局立ち返って詳細な説明を強いられると。
もしプログラマーが一人しかいなければ、物事はもっと単純でしょう。幸いなことに実際はそうではありません。もし一人しかいなければプログラミング・スタイルも一つしかなかったでしょう。

現実に、プラグインでできることは、Jack対応のアプリケーションや、その他のモジュールとも異なってきます。接続の様式に一貫性がないうちは、独立した個々のソフトウェアが、(接続チェーンの上で)それぞれ何をどのようにするべきか自ら規定しているのだともいえます。
それらが統一されるか、さらにフォーマットが増えるか私にはわかりませんが、もし増える一途を辿れば、ほとんどのソフトウェアが相互接続できない未来になり、それは望ましいことではないでしょう。

Q4
私はリチャード・ストールマンがプログラマーとして自分の力を分け与えた様に感銘を受けます。彼は自由を説きながら25年も前から行動を起こし、態度を持って「自由」を定義しました。ですので、作曲家、演奏者、指揮者、プログラマーなどが聴衆を二級市民のように扱うのを快く思いません。たとえば選択的に聴いたりと、「聴く」という行為はときに能動的になりえます。
先ほどの講演はすばらしかったですが、このように聴衆を蔑んでいるようにもとれました。


その限りではありません。常に力を持っているのはクライアントですし、多くの場合聴衆がクライアント本人です。特に音楽が商業化されて以来はその傾向にあります。
私に言わせれば、音楽の商業化こそが悪の大元に他なりません。これにより、音楽は金銭の代償として得るものになりました。
しかし、音楽の輪の中では、リスナーが絶対的な力を得ています。例えばリスナーがある作曲家の作品を聴かなくなれば、この作曲家は収益を得る術を失います。ひいてはこの作曲家が創作を続ける術も奪います。
ですので、音楽から商業性を取り除く…リスナーに規定を強いる(選択的に聞かせる?)ことを奪うのは、同時にリスナーから権力を奪うことになります。リスナーの要望でマイケル・ジャクソンの次のアルバムが製作されることもなくなります。それが良いことなのかどうかは私にはわかりません。