M/S処理と留意事項
この項では、近年よく聞かれる「M/S処理」についてお話しします。
効果的な使用方法については他の文献に譲るとして、本記事では以下に要点を絞ります。
- 前半「M/S処理とは何か?」
M/S処理の概要を説明します。M/S処理が、別段魔法のような処理ではないことをご理解いただきたく、制作プロセスに興味をお持ちのリスナーを主な対象としています。また、せっかくなのでクエリエイターにとっても再考の機会になればと、他の文献とは異なるアプローチでの解説を試みました。 - 後半「M/S処理時の注意点」
M/S処理による副作用、特にステレオ音像を広げた場合の留意点について、主にクリエイターを対象に説明します。
ひょっとするとヘビーなリスナーがお読みになっても、疑問に思っていた「アノ一枚」の事情を理解するヒントが見つかるかも知れません。
M/S処理とは何か?
前置き:音楽収録やトータル・エフェクトの主流は2トラック
カセット・テープ、CD、LP、etc.. これらはすべて2つの収録トラックを持つ録音媒体です。(カセット・テープは使い方によってはもっと多くのトラックを収録することも可能ですが…)
一般に、トラック1には左(L=Left)のスピーカから再生したい信号を、トラック2には右(R=Right)のスピーカから再生したい信号を、互いに独立して収録します。
また、2Mix(ミックスを終えた音源全体)への処理を目的とするエフェクト、はたまた家庭用の再生機に内蔵されているイコライザなどは、多くの場合L/R、2つのチャンネルに等しく作用します。
L/Rだけがステレオ音源を収録/加工する方法ではない
録音機やエフェクタの入出力が2トラック分あるからといって、必ずしもステレオ音声をL/Rに分けて取り扱う必要はありません。
たとえば、制作用のエフェクト・プロセッサには、L/Rのチャンネルを個別に設定できるものもあります。これをL/R用に用途を限定しない、2チャンネルの汎用プロセッサと考えると、可能性が広がりそうです。
エフェクト・プロセッサの入出力が2チャンネル分あるからといって、L/Rの個別処理に用途を限定する必要はありません。
2チャンネルあれば、L/Rの信号を「センター寄りの成分」「両サイド寄りの成分」の2本に変換して収録したり、加工することもできます。
「あれ?それってL + R + センターの3トラックが必要でないの?」と思われるかも知れませんが、そうでもありません。その理由を説明する前に、そもそもセンターから聴こえる音とはなにかについて考えてみましょう。
「センターから聴こえる」と感じる音
ミキサーやDAWの「PAN」に触れたことがあればわかると思いますが、同一の信号がL/R両チャンネルから等しい音量で再生されるとき、ヒトの聴覚はそれを正面から来る音と認識します。いわゆるPANは、同一信号が左右チャンネルから再生される音量のバランスを変えることで、正面以外の方向から来る音を演出する仕組みであるといえます。
また、ステレオ・スピーカの正面に座ったとき、センターの音が発生していると感じる方向には、実際にはスピーカはありません。このように、スピーカが存在しない正面中央から聴こえる音声、またはその現象を「ファントム・センター」と呼びます。(Phantom=幻、錯覚、実態のない、etc..)
考えてみれば、音楽にとって最も重要なパートの多くが位置するセンターの再生が、このような錯覚に委ねられているのは不思議ではないでしょうか?
Left/Rightの信号をMid/Sideに変換する
さて、このことを考えると、「センター寄りの信号」と「L/Rのいずれかに寄った信号」は、それぞれ以下の式で取り出せそうです。
- Mid = L + R → L/Rに共通する信号を強調
- Side = L - R → L/Rに共通する信号をキャンセルし、共通しない信号を1トラックにまとめる(ただしRは逆相)
このことからもわかるように、Midといえどもセンターど真ん中の音声しか含まないわけではありません。
上記でMid、Sideに分けた信号を再びL、Rに戻すには、先ほどとは逆の計算を行います。
- L = (Mid + Side) ÷ 2
- R = (Mid - Side) ÷ 2
信号の引き算は、ミキサーやDAWにおいてφで表される「フェーズ(位相反転)スイッチ」で行います。
なお、仮に信号劣化がない回路があった場合、この相互変換は何度繰り返しても元の信号に戻ります。また、アナログ機器であっても、十分に精度が高ければM/S処理は可能であることがお判りいただけるかと思います。
M/S処理 = 変換して取り出したMid/Sideに対して個別に処理を行う
遠回りになりましたが、こうして取り出した「Mid寄りの信号」「Side寄りの信号」それぞれ個別にEQやダイナミクス処理を行おうというのが、M/S処理の基本です。
ただし、後述するようにM/S処理には副作用が伴います。これらの副作用はM/S処理を用いる代わりに、ミックス・ダウン中に各パートに対して別の手段で対処するか、あるいは場合によってはアレンジにまで立ち返ることで回避できます。
翻ってマスタリングの場合、すでにL/Rの2チャンネルに焼き込まれた素材、あるいはよくてセクションごとがまとめられたデータしかエンジニアの手元にはありません。
必然的に「M/S処理」は、個別パートの操作が難しいマスタリングの文脈で語られることが多くなります。
なお、内部でL/R⇔M/Sの変換を行うエフェクトを使用しない場合、この変換を手動で行うことになりますが、M/S信号をそのままDACのCh.1 & 2に送ってもしょうがないので、通常はどこかの段階で再びL/Rに戻します。
M/S処理時の注意点
ステレオ音像拡張の副作用
特に2Mixに対し、左右の広がりを強調すべくSideを持ち上げる目的でM/S処理を行う場合、留意すべき点があります。
まずは下の図をご覧ください。
図中のステレオ・メータ(リサージュ、リサジューともいう)は、ステレオ音声の左右の広がり具合を可視化するものです。
正面から聴こえる信号、つまり左右チャンネルの信号が同一の場合、中央に垂直な線として表示されます。
左右チャンネルの信号が同一ながら、レベルのみが違う場合…たとえば前述のPANで振った場合などは、左右の音量差に応じて線は回転し、L/Rいずれかに振り切ると線は45度に傾きます。
通常の音楽では、左右チャンネルのレベルや相対的な形状が絶えず変化するため、直線で表されることは滅多にありません。しかし、描かれる図形により、ある程度は音像の広がり具合をある目視確認したり、曲間で比較することはできます。
さて、上図左、Beforeは、1kHzのサイン波をステレオ・メータに入力し、PANを0からLに向かって10%単位で振り、計11回の測定結果を画像編集ソフトで重ねたものです。(一つの入力で、上記画像のような表示になることは原理上ありません。)
垂直の線がセンターに位置するサイン波、45度傾いてメータの「L」を指しているのが、左にPANを振り切ったサイン波です。
次に、この11本のサイン波を同様にPANで10%間隔に配置し、M/S処理によりSideを6dB持ち上げた結果が右の「After」です。
この2つの図を比べると、主に2つのことが目につきます。
- M/S処理前は信号が存在しなかった「+S~L」の範囲に信号が生じる。
- センター付近の分布が処理前よりも「まばら」になっている。
それぞれの現象について、以下に説明します。
1. L/R両端に近いパートほど、逆相成分が生じる
ステレオ・メータの「+S~L」の範囲に信号があるのは、左右チャンネル間に逆相成分があることを意味します。
次の各信号波形をご覧ください。
PAN 0の設定時の波形です。L/R(上下)チャンネルの波形が等しいです。
PANを左に50%まで振ったときの波形です。L/Rのレベル差はありますが、位相(山or谷の向き)は、まだ揃っています。
ステレオ・メータの「+S~L」の範囲に位置する信号の波形です。左右チャンネルが逆相になっている(波形の形状は同じながら、波形の山or谷が反転している)ことがわかります。
先述のようにミキサーの「PAN」は左右チャンネルの音量バランスを変える仕組みですが、これにより単一トラックを左右に配置する限りにおいて、L/Rのチャンネル間に逆相成分が生じることはありません。
では、同一の動きをする信号が+-反転した状態でL/Rの両チャンネルに含まれると、なにか問題があるのでしょうか?
たとえば作品を、設備の天井スピーカで再生する、あるいはAMラジオで放送することを目的にモノラル変換する場合、通常は単純にL/R両チャンネルを足します。すると各チャンネルの逆相成分はたがいに打ち消しあい、結果として他のパートよりもレベルが下がることになります。さらに、信号がステレオ・メータの「+S/-S」のいずれかに振り切っている場合は、そのパートは完全に消滅します。
なお、上記の問題は単一パートのステレオ・メータ出力や波形を観察した場合に限られます、複数のパートを音像の左右に配置した場合、もともと各パートの波形は異なる動きをしますので、L/R間に逆相成分が生じる(一方の波形が「+」のときにもう一方が「-」に振れる)こと自体は珍しくありません。問題になりえるのは、同じパートが、反転した状態で左右両チャンネルに含まれる場合です。
先述のL/R⇔M/S間の変換式に、実際に値を代入してみましょう。
仮に、L方向へ90%までPANを振った信号があるとします。DAWやミキサーによって PAN 90%の意味するところは異なりますが、ここでは概念を理解するため簡略化します。
- L/R各チャンネルに、同位相の信号がL: 0.9、R: 0.1 の割合で収録されているとします。
- 先の式より、これをM/S変換すると、それぞれM: 1.0、S: 0.8となります。
- 次に、Sideのみレベルを上げます。これによりM: 1.0、S: 1.1になったとします。
- さて、目的を達成したので、同じく先の式によりL/Rに変換します。
- L: 1.05、R: -0.05 となります。
2. 音像に疎な部分が生じ、配置が3点にかたよる
先ほど、ステレオ・メータ上の11本の線が移動する様子をご覧いただきました。
この配置変えを、実際の演奏パートに適用してみます。
まずはM/S処理前のイメージです。
ボーカルを中心に、楽隊が楽しそうに演奏していますね。
これを元に、Sideを持ち上げる処理を行うと次のようになります。
顕著な変化としては、まず音像の幅が広がりました。元々両サイドに位置していたパートは少し大きくなりましたね。
音像は広がりましたが、中央のパートは左右との距離が開き、やや一体感が損なわれたように思われます。これは場合によっては、実際に全体としてのグルーヴ感や、ハーモニーの混じり具合に影響します。
また、後方のパート…元々少し音像が幅を持っていた熊のパートは、輪郭が横に伸び、また少しボヤけています。
少し不鮮明になったのは両サイドのパートも同様です。アレンジ上、奥まってしかるべきパートは、このボヤけ加減が前景との対比を演出し興味深い場合もありますが、基本的には先述の理由により、モノラル変換時の耐性が損なわれます。
ちなみに、センターの両サイドに「疎」な空間が生じるのは演奏パートだけではありません。2Mixに焼きこまれたリバーブ(残響成分)なども同様に疎になります。その結果、センターの両サイドに吸音板か、あらゆる空気振動を吸い尽くすブラックホールがあるかのような音像になります。
全体として、本来フラットなはずの音像空間の中で、音の発生源がL/C/Rの3箇所にかたよりがちになります。
明らかにM/Sマスタリングにより、このようなかたよりが聴いて判別可能なケースを、筆者自身は3色の国旗に倣い「トリコロール現象」と呼んでいます。
今回はSideのゲインを極端に持ち上げるという特殊なケースで説明しましたが、M/S処理を用いたEQでも、程度の差はあれど位相操作により音像に虫食いが生じたり、アレンジがモノラル変換への耐性を損なうといったトレード・オフが存在することは留意に値するかと思います。ダイナミクス処理の場合はこれが時間とともに変化します。
これまでにお話ししたのは、いずれもマスタリングなど、2Mixに対して処理を行う場合の留意点です。
M/S処理にて(あるいはステレオ・イメジャー系のエフェクトにて)逆相成分を生じたパートは、うまくすれば左右スピーカの外から聴こえるように演出することも可能です。また、特定パートだけL/R各チャンネルに逆相成分を含めることで、そうでないパートとの差別化により分離を明確にすることが可能です。ただし、そうしたパートがモノラル変換時に減衰するという特性に変わりはありません。
AMラジオでのオンエア時にパートがまるごと消えるリスクを覚悟の上で、強烈なギミックを挿むことも、選択としては有効です。
パートの重要性を天秤にかける作業になるため、どちらかという編曲の範疇になりそうですが、使いどころは検討が必要です。
最後に余談ですが…
2016年にリリースされたあるメジャータイトルで、モノラル変換時に曲の屋台骨となる両サイドのギターが完全に消えるケースについて、知人から報告を受けました。筆者自身、過剰なM/S処理は好みでないため以前から気になってはいましたが、ビッグ・タイトルでもこのような失敗事例(失礼)があることを知ったのが、本記事を書くに至ったきっかけになりました。
再生環境が固定されている作品はともかく、聴き方がリスナーに委ねられる作品については、ミックスおよびマスタリング中の「モノラル互換性チェック」は入念に行うべきです。